世界史レッスン
チャイコフスキーの身に起きたシンクロニシティ 1877年
~アントワネット没後84年~
シンクロニシティ(共時性)とは、「いくつかの出来事が偶然に、しかしまるで偶然以外の何かが作用しているかのように、同時に起こること」を言う。ユングの定義では、「本人にとって重要な意味を持つ偶然の一致」。
1877年、チャイコフスキーが新しいオペラの題材をさがしていると、知人からプーシキン作『エウゲニ・オネーギン』はどうか、と勧められた。読んですぐその気になり、まだ台本すら未完の段階で「精神的必要にかられ」、第一幕クライマックス<手紙の場>(ヒロインがオネーギンに恋文を書きながら歌う長大なアリア)を作曲し始めた。
実は「手紙」こそがこのときのチャイコフスキーのキーワードだった。というのもつい先頃、音楽院の女学生アントニーナから熱烈な恋文をもらったものの、ほうってあり、そのことがただの偶然とはどうしても思えなくなったのだ。
彼は友人にこう書いた、「このオペラに取り組んでいる折りも折り、まるでオネーギンがもらった恋文とそっくりの手紙を受け取ったのです。そこでぼくは、小説では結ばれず終わったふたりを、現実で救いたいと思うようになりました」ーーこうしてチャイコフスキーはアントニーナに求婚する。
悲惨な結婚生活だった。夫である前途有望な作曲家は同性愛者だし、妻である金髪の美女は著(いちじる)しく情緒不安定なのだ。
まもなくチャイコフスキーは妻に耐えられなくなり、アントニーナの方も夫に嫌気がさして別居し、多くの男性と関係したあげく、父親の違う子どもを3人も産んで、最後は精神病院で亡くなった。
そもそもチャイコフスキーは、女性を愛せないのだから結婚すべきではなかった。その主張はあるだろう、とりわけ妻の側からは。しかし彼はこの結婚で間違いなく救われている。同性愛者ではないかとの執拗(しつよう)な噂が、妻帯することでたちまち消えてくれたからだ。
当時のロシアでは同性愛は致命的な恥とされたばかりでなく、場合によっては流刑ないし投獄もありえたので、何としても隠し通さねばならなかった。彼の結婚は身勝手ではあったが、とはいえ「あらゆる出来事が『オネーギン』と結びついている」、つまり現実と小説がシンクロした(当時まだこの言葉はなかったが)ため、彼がそこに啓示を見たのも確かだろう。
チャイコフスキーが亡くなったのは、この16年後。ついに同性愛が公になりかけたための自殺といわれる。先手を打って毒をあおいだ彼の、死後の名誉は守られた。コレラによる感染死と発表された。
もし『オネーギン』とのシンクロニシティがなければ、彼は結婚しなかったろう。もし結婚していなければ、秘密はもっと早い段階で暴露されただろうし、死はもっと早まっていたかもしれない。珠玉の作品の数々が生まれなかった可能性も高い。
そう考えればチャイコフスキーの身に起きたシンクロニシティは、後世の我々に傑作をプレゼントしてくれたと言ってもいいかもしれない。(中野京子)
★お便り募集★このコラムをお読みになった皆さんの感想や質問をお待ちしています。 ⇒こちらの「ベルばらKids専用フォーム」からどうぞ。
投稿者 中野京子 2007/02/27 9:05:42 世界史レッスン | Permalink | トラックバック (1)
この記事へのトラックバック一覧です: チャイコフスキーの身に起きたシンクロニシティ 1877年:
» METライブビューイング、チャイコフスキー『エウゲニ・オネーギン』(世界史レッスン第52回) トラックバック 中野京子の「花つむひとの部屋」
朝日新聞ブログ「ベルばらkidsぷらざ」で連載中の「世界史レッスン」第52回目の今日は、「チャイコフスキーの身に起こったシンクロニシティ」⇒http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2007/02/post_285b.html#more
チャイコフスキーが『エウゲニ・オネーギン』作曲中に遭遇した、不思議なシンクロニシティについて書きました。
タイミングよく昨日、ル・テアトル銀座で『オネ�... 続きを読む
受信: 2007/02/27 10:57:16