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2007年2月20日 (火)

世界史レッスン

山田浅衛門とサンソン 1793年

  ~アントワネット38歳~

 絶体絶命の意味で使われる「土壇場(どたんば)」という言葉がある。これは江戸時代、刀剣の切れ味を調べるため牢内に土壇を築き、そこへ処刑された者の胴体などを置いて試し切りしたことからきている。

 このとき御試御用(おためしごよう)に当たったのが山田浅衛門(朝衛門とも言う)で、やがて罪人の首をはねるという仕事も請けるようになった。以降、この名前は代々受け継がれ、一貫して浪人という身分のまま徳川家の死刑執行役となる。

 別名「首斬り浅衛門」は、罪人の首の皮一枚残して切るほどの腕前だったなどの伝説を数々残し、明治時代まで長く続いた。吉田松陰や高橋お伝の首もはねている。

 一方パリで、7代続いた(初代の義父も含む)死刑執行人といえば、ご存知サンソンだ。フランス革命のせいで、王や王妃を筆頭に夥(おびただ)しい数の貴族や著名人を処刑して名を馳せた。

 1793年のマリー・アントワネット処刑におけるサンソンの仕事は、ツヴァイクによればーー

 まずコンシェルジュリの監獄内で、アントワネットの髪を短く刈り込む。それから両手を後ろ手にしばり、その縄の端を持ち、いっしょに動物死体運搬用の荷車に乗る。見せしめの意味で車はゆっくりパリ市中を廻ったのだが、その間ずっと綱をにぎって彼女の後ろに立つ。広場へ到着すると、処刑台の上で数人の助手たちとギロチン台を点検し、アントワネットの首を枠にはめ、刃を操作する。落ちた首を拾い、髪の毛をつかんで見物人に見せる・・・

 恐怖政治でギロチンがフル回転した当時、仕事は過酷だった。衣服がすぐ血まみれになるので毎日何度も着替えねばならない、と当局へ苦情を申し込んだほどだ。処刑台も血でぬるぬるしていた。サンソンの子どものひとりは、処刑を手伝っていてすべって転び、頭を打って死亡したといわれる。

 初代サンソンが仕事を始めたのは1688年。7代目サンソンが解雇されるのは1847年である。理由は借金。

 7代目は仕事のストレスから飲酒と賭博で財産をなくし、債務者用刑務所へ入れられそうになる。保釈費用が払えなかったので、所有財産であるギロチンを借金のカタに取られてしまう。取りもどせないうち次の仕事がきて、「ギロチンはどうした?」「いま手元にありません」「なに~!」という次第で、ついにクビになってしまった由。

 山田浅衛門が借金で刀を抵当にいれるなど、想像もできないが・・・(中野京子)

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投稿者 中野京子 2007/02/20 9:03:34 世界史レッスン | | トラックバック (1)

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 朝日新聞ブログ「ベルばらkidsぷらざ」で連載中の「世界史レッスン」第51回目の今日は、「首斬り浅衛門とサンソン」⇒http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2007/02/post_df57.html#more ほぼ時代を重ねて江戸とパリで、代々死刑執行人として過酷な人生を生きなければならなかった彼らについて書きました。    山田浅衛門は高橋お伝の処刑でミスをしたことが知られている。彼女は男ふたりがかりで押さ... 続きを読む

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