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2007年6月12日 (火)

世界史レッスン

モーツァルト・ジュニアの挫折 1829年

  ~アントワネット没後36年~

 モーツァルトが35歳で急死したとき、あとには珠玉の作品群600と多額の借金、妻、そしてふたりの息子 ― 7歳のカール・トーマスと生後6ヶ月足らずのフランツ・クサーヴァー ― が残された。

 未亡人コンスタンツェは、とうぜん子どもにも天才の血が流れていると考えたからか、あるいは単に厄介(やっかい)払いをしたかったためか、夫の葬儀後すぐカールをプラハの音楽教授のもとへ預けてしまう。6年間も。

 親の愛情を受けられなかったカールは迷走する。13歳で帰国すると、音楽家ではなくピアノ商人になりたいと言い出し、14歳からはまた親元を離れてリヴォルノの商業学校へ通いはじめる。しかしそこも嫌になり、やはり音楽で身をたてたいと、ハイドン(モーツァルトと親交があった)の推薦状をもらってミラノの音楽院へ入ったのが、21歳。2年間学んだが、けっきょくあきらめる。

 それからはミラノでオーストリア政府の小役人として、妻帯もせず、つましい地味な生活を送り、ときたま母親に金の無心をしては断られたりしながら、74歳の長命を全うした。晩年の写真が残っているが、何ともぱっとしない風采(ふうさい)は、華やかな生活とは縁遠かったことを物語っている。

 一方もうひとりのジュニア、末子のフランツは、虚弱体質ということもあって大切に育てられた(モーツァルトには全部で6人子どもがいたが、他はみな早世している)。母親の再婚相手からも実の子のように可愛がられたものの、彼には別の困難が待っていた。モーツァルト2世としての成功が期待されたのだ。

 名前も父と同じのを名乗らされ、フランツ・モーツァルトから「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」、ときには「2世」を外したまま、コンサートを開いたこともある(一種の詐欺だと思うが・・・)

 デビューは7歳、師匠はサリエリ(!)だった。いくつか作曲し、演奏したが、誰からも凡庸と評された。ついには母親からも期待はずれの烙印(らくいん)を押され、兄どうよう、精神も心も萎縮(いしゅく)してゆく。

 1829年、モーツァルトの大ファンと称するイギリス人夫妻がコンスタンツェを訪問し、たまたま同席していた38歳のフランツ(このころはピアノ教師をしていた)について、こんな感想を書きとめている、「父親のような才能はない、との絶望感を漂わせている」。

 彼もまた未婚、子どもを残さずに亡くなった。(中野京子)

《世界史レッスン関連コラム》
膝にのったメヌエット
さまよえるハイドンの頭蓋骨

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投稿者 中野京子 2007/06/12 8:48:08 世界史レッスン | | トラックバック (1)

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 朝日新聞ブログ「ベルばらkidsぷらざ」に連載中の「世界史レッスン」第67回目の今日は、「モーツァルト・ジュニアの挫折」⇒ http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2007/06/post_7c7b.html#more  モーツァルトのふたりの息子たちが、音楽家として全く大成できなかったエピソードを書きました。  未亡人コンスタンツェは夫亡き後、猛烈な蓄財能力を発揮し、借金は全て返済したばかりか、人に高利でお金を貸したりしている。下宿屋も始めた。そして部屋を... 続きを読む

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