世界史レッスン
決闘で若死にしたプーシキンとガロア(決闘その2) 1837年
~アントワネット没後44年~
先週あげた著名な決闘経験者たちは、いずれも負傷したり負傷させられたりはしたものの、命のやりとりまではしていない。だがフランスの天才数学者ガロア--相対性理論にも影響を与えたとされる--は、ひとりの女性をめぐって決闘となり、わずか20年という若すぎる命を終えている。
ガロアの死から5年後の1837年、サンクト・ペテルブルクでも、ロシア近代文学の父とされるプーシキンが決闘に散った。37歳だった。
ロシア人は長らく決闘を「ヨーロッパの野蛮な風習」として軽蔑していたが、ピョートル大帝が国の西欧化を強引に推し進めた際に、この「野蛮な」文化まで入りこんでしまい、18世紀から19世紀はじめまで、貴族間で大流行するようになった。プーシキン自身が『エウゲニ・オネーギン』の中に、非劇的な決闘シーンを描いているのも皮肉としか言いようがない。
プーシキンの決闘のきっかけは、彼の美しい妻だった。社交界の花と謳(うた)われた彼女に、近衛将校ダンテス(フランス人だった)がしつこく言い寄って、夫であるプーシキンを挑発し、ついに決闘を申し込まざるを得ない立場に追い込んだのだ。
双方の介添え人たちが署名した契約書が残されており、それによればこの度(たび)の決闘が、死を賭(と)した真剣なものだったとわかる。互いの指定線までの間隔が、「高貴なる距離」と呼ばれた10歩(!)しかなかったのだ。
まず決闘者たちは20歩の距離をおいて立つ。合図があってから歩き出してピストルを撃つが、5歩以上歩いて指定線を越えるのは許されないし、撃ったあとその場を動いてはならない(相手からの射撃を同じ条件で受けるため)。結果がでなければ、もう一度はじめからやり直す。
こうしてプーシキンは射撃の名手ダンテスの放った弾を腹部に受け、2日後に亡くなった。直後、『詩人の死』と題された手書きの詩が町じゅうにばらまかれたが、そこには、この決闘が権力側の陰謀であり、体制批判を続けていた自由主義者プーシキンを抹殺するため、あらかじめ仕組まれたものだったことが暴露されていた。
著名な作家、美貌の妻、流れ者のフランス軍人、三角関係、決闘--一見ロマンティックなこの事件の裏には、用意周到な政治的策謀があったというわけだ(これは今ではほぼ定説とされている)。
さらに暗澹(あんたん)となるのは、この詩を書いて糾弾した若いレールモントフ--プーシキンの後継者と言われていた--まで、4年後、決闘で命を落としたという事実である。(中野京子)
《世界史レッスン》関連エピソード
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■絶対君主たちの臨終シーン
■ワンチャンスをものにする
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■ばればれの変装
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投稿者 中野京子 2007/09/04 8:38:52 世界史レッスン | Permalink | トラックバック (1)
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先週に引き続いての決闘エピソードです。
プーシキンは決闘に出かける直前、友人と<文学カフェ>(リチェラトゥール・カフェ)でお茶を飲んだと言われている。しかしどうやらこれはほんとうではなく、単にここは彼の行きつけのカフェだったというだ... 続きを読む
受信: 2007/09/04 9:44:01