2013年2月末をもってブログの更新を終了いたしました。 ⇒詳しく
e-book Japan ベルサイユのばら

0228delete -->

« ル・ルーとアンドレの「池田理代子氏の講演会潜入記」 | トップページ | ル・ルーは理代子先生?♪おたより »

2008年3月18日 (火)

世界史レッスン

オーストリアの高貴な囚人 1832年

  ~アントワネット没後39年~

先週のクイズの答え。でもその前に、ヒントは何だったかというと――「夫の姉の息子」「皇帝の孫」「フランス人の父」など。ゾフィ夫カール大公の姉といえば、皇女ルイーズ。彼女が母親なのだから、父親は当然・・・

 ナポレオン・ボナパルト

 つまりゾフィの「甥」で、もしかすると恋人だったかもしれないこの青年は、ナポレオン2世、正確にはフランツ・ヨーゼフ・カール(ライヒシュタット公)だった。

 なぜナポレオンの息子がシェーンブルン宮殿で暮らしていたか?

 わけは単純だ。彼が3歳のとき、父ナポレオンは敗戦によって退位、島流し。母マリー・ルイーズは、息子の2世を連れてさっさとウィーンの実家へ帰ってきたのだ。

 もともと政略結婚で、人身御供(ひとみごくう)のように敵国の成り上がり者の妻にされたマリー・ルイーズは、好きでもなかった男との間にできた息子にもあまり愛情はもてなかったのかもしれない、まもなくひとりでパルマ公国へ行き、そこで愛人(後に正式に結婚)との間に新たに子どもたちを産み、2世の方はほとんど顧みなかった。

 2世は宰相メッテルニヒからフランス語の学習を禁じられ、少年時代は半ば宮殿に幽閉状態だったから、陰で「オーストリアの高貴な囚人」とあだ名されていた。

 ハプスブルク家のナポレオン憎悪は烈しかったし、母にも見捨てられた2世は、孤独とアイデンティティの危機にさらされ続けだったといえるだろう。頼れるゾフィの存在がどれほど大きかったか、想像に難(かた)くない。

 長ずるにしたがい、2世は偉大なる父のことを密かに学びはじめ、尊敬するようになるが、まもなく病に倒れ、妻子を持つことなく若死。ここにナポレオンの直系は絶えた。

 ハプスブルク家にとっては、都合よかったのではないだろうか。もし2世がこの先、自分のアイデンティティを父の国フランスに求めるようなことになれば、両国ともにいっそうの緊張関係になっていたはずだ。

 ちなみに後年、フランス第2帝政で皇帝となるナポレオン3世とは、ナポレオン・ボナパルトの弟の息子にすぎない。(中野京子)

⇒「オーストリアの高貴な囚人」ナポレオン2世の少年時代の肖像画はこちら。美少年です。

<関連情報>
ハプスブルク家に関するエピソード
山内一豊の妻――西洋男性版 1736年
マリア・テレジアの16人の子どもたち 1736年
秀吉の誓詞もカール6世の詔書も、ただの紙切れ 1740年
不吉な予兆あれこれ 1770年
ヨーゼフ2世、水戸黄門になる 1790年
エリザベートの鬼の姑 1824年
なんでオレだけ皇帝じゃないの? 1848年

ナポレオンのエピソードいろいろ

ナポレオンを兄にもつと・・
ナポレオン「百日天下」に右往左往の彫刻家
ナポレオンも苦言――ロマンティックな結核
ナポレオンの裏切りに触発されて
いつの時代もファッションは
戦争しながら読む恋愛小説
ナポレオンの兵隊さん

お便り募集このコラムをお読みになった皆さんの感想や質問をお待ちしています。 ⇒こちらの「ベルばらKids専用フォーム」からどうぞ。

投稿者 中野京子 2008/03/18 8:26:53 世界史レッスン | | トラックバック (1)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/165303/40543665

この記事へのトラックバック一覧です: オーストリアの高貴な囚人 1832年:

» 人気ゼロのマリー・ルイーズ(世界史レッスン第104回) トラックバック 中野京子の「花つむひとの部屋」
 朝日新聞ブログ「ベルばらkidsぷらざ」で連載中の「世界史レッスン」第104回目の今日は、「オーストリアの高貴な囚人」⇒ http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2008/03/post_d9fd.html#more  先週のクイズの答えは、「ナポレオン2世」でした。できましたか?  さて、歴史上数多ある王妃、皇妃、プリンセスたちの中で、「最大の美女」は誰かというアンケートが数年前ヨーロッパで行なわれたところ、ナンバーワンはやはりエリザベート皇后ということに... 続きを読む

受信: 2008/03/18 9:01:44