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2010年1月 1日 (金)

日仏歴史談議

五稜郭で戦ったフランス軍人ブリュネ

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 1789年7月14日、フランス衛兵隊が市民と共にバスティーユ牢獄を攻撃したことは周知のことだろう。そして、この時のピエール・ユラン伍長オスカルのモデルになっている事も、『ベルばら』ファンには、広く知られていることである。

 さて、フランス衛兵隊の正義感は、その後もフランス軍人に受け継がれていたことが、幕末の日本で見ることができる。

 1858年江戸幕府は、日仏修好通商条約を結び、両国の交流が始まる。フランスはナポレオン3世の時代で、1866年には幕府の要請により、フランス軍軍事顧問団が派遣された。団長はシャノアーヌ参謀大尉、副団長はブリュネ砲兵中尉、以下15名(史料により人数には若干の違いがある)であった。彼らは、主に幕府軍の養成を担当した。
しかし2年後本国でリュイス外相が失脚すると、幕府寄りの政策が転換され、また間もなく幕府が崩壊したこともあり、フランスへの帰国命令が出された。
  
 このとき、ブリュネら9名は思わぬ行動に出たのである。ブリュネは当時30才、本国の帰国命令に背き、榎本武揚率いる旧幕府軍に加わり、明治政府軍と函館五稜郭で戦ったのである。彼らは最後まで榎本らと行動を共にする決心だったようだが、五稜郭陥落の時、榎本らに促されフランス軍艦で脱出し、その後本国に強制送還された。

 1869年9月、ブリュネらはマルセイユに着くが、当然厳しい処分を覚悟していた。が、多くの市民が彼らを温かく迎えたのである。市民らは、彼らの日本での行動に賛辞を贈ったのである。そのため軽い処分で済み、後にシャノアーヌが陸軍大臣に就任すると、ブリュネはその官房長官に任命されるなど昇進を果たし、明治政府からも、勲二等瑞宝章を授与されている。1911年、72才で亡くなった。

 ブリュネらが、命令に背き幕府軍に殉じた理由だが、軍人としては、旧幕府軍は明治政府軍に十分勝てると思っていたこと、人間としては、日本人の教え子たちを見捨てることができなかったことなどが挙げられている。
 フランス衛兵隊も、ブリュネらも、自分の信念に忠実だったということが推察出来るだろう。

ちょこっと最後に…横浜の「港の見える丘公園」にフランス山があります。フランス軍が駐留したのでその名がついたそうです。また、フランス軍は、その制服の色から、「青隊」と呼ばれたそうです。(鈴木規子

〈参考文献〉
『大君の刀』 合田一道 道新選書
『絹と光』 クリスチャン・ポラック アシェット婦人画報社
『神奈川県の歴史散歩 上』 山川出版社

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投稿者 ベルばらKidsぷらざスタッフ  2010/01/01 11:00:00 日仏歴史談議 | | トラックバック (0)

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