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2010年2月 5日 (金)

日仏歴史談議

フランスで紹介された大黒屋光太夫 

 2008年11月22日の『ベルばらKids』で登場した大黒屋光太夫は、エカテリーナ2世と共にフランスを訪問し、ルイ16世相撲の話で盛り上がっているが、実際にはエカテリーナ2世に謁見した後日本へ帰国しているので、残念ながらフランス訪問は史実としては存在しない。だが、光太夫はフランスでも紹介され、評判となっている。それは、レセップスというフランス人が彼を本国で紹介したからである。

 大黒屋光太夫は、1751年に生まれた伊勢国出身の船頭で、1782年、船員16人と伊勢から江戸に向かう途中大しけにあい、翌年アリューシャン列島に漂着し、4年間をここで過ごす。仲間が次々と亡くなる中、イルクーツクを経て、1791年にペテルブルクエカテリーナ2世に謁見し、日本への帰国が許される。そして、翌年、アダム・ラクスマンに伴われて、船員の小市・磯吉と共に根室に帰着する。根室で小市は死亡するが、彼は磯吉と江戸番町薬園に軟禁され、1828年に78才で亡くなった。

 さて、彼らがイルクーツクに行く前、カムチャッカでフランス人バルテレミー・レセップスと出会っている。レセップスは、スエズ運河を開鑿したフェルディナント・レセップスの叔父にあたるが、彼はこの時ルイ16世の命をうけた航海者ラペルーズの指揮するフランス太平洋探検隊に参加しており、ルイ16世に航海日誌を提出するため下船していた。

 そして、レセップスは1790年のフランス革命真最中のパリで、ロシアで見聞した事を『旅行日記』として刊行した。この本は、革命下のフランスでベストセラーになり、ロシアの都ペテルブルクでも争って読まれたという。この『旅行日記』の中に光太夫のことが書かれていた。
 それによると、光太夫は、自由に振舞い、煙草好きで、ロシア語は充分に話すが早口だったそうだ。また、メモ魔で、起こったことを忘れないようにすぐに書き留めていた、らしい。フランスの人々は、東洋の光太夫らの事をどう思ったのだろうか。 

1792年に光太夫が帰国すると、幕命により桂川甫周が彼から聞き出したロシアの国情や風俗を『北槎聞略』にまとめた。光太夫がペテルブルク滞在中にフランス革命が勃発していて、彼もその情報はロシアの新聞から得ていただろうが、政治的な記述が排除された『北槎聞略』には残念ながらフランス革命の記事は無い。また、秘本とされたので一般に流布することはなかった。

ちょこっと最後に…エカテリーナ2世を輩出したロマノフ王朝は1918年のニコライ2世一家殺害で終焉します。その後皇帝一家の遺骨が発見され、真偽を確認するためDNA鑑定を実施することになります。協力のため、1891年にニコライ2世が皇太子時代に来日し巡査に襲われた大津事件の止血に使われたハンカチが提出されたのもこのときです。最終的には親族らのDNAをもとに鑑定され、遺骨は皇帝一族のものと確認されました。(鈴木規子

〈参考文献〉
『大黒屋光太夫』 山下恒夫 岩波新書
『絹と光』 クリスチャン・ポラック アシェット婦人画報社
『大黒屋光太夫の接吻』 生田美智子 平凡社

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投稿者 ベルばらKidsぷらざスタッフ  2010/02/05 11:00:00 日仏歴史談議 | | トラックバック (0)

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