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2010年5月27日 (木)

ベルサイユの音楽会

『セビリアの理髪師』に関わる3人の芸術家

 みなさん、こんにちは。最近、段々と暖かくなってきましたね。
 ようやく、春なのに寒いという日が少なくなってきたので、Erikoもやっと冬物のコートとブーツをしまう事ができました。
 さて、今回の「ベルサイユの音楽会」では、前回、前々回と続けて書いてきた、『セビリアの理髪師』に関わる3人の芸術家についてご紹介していこうと思います。

■パイジエッロ
「ジョヴァンニ・パイジエッロ(Giovanni Paisiello)1740―1816」

 18世紀のイタリアの作曲家。
 幼い頃は神学校に通い、その時に歌の才能が開花したので、ナポリの音楽学校で本格的に音楽を学びます。
 卒業後は、劇場のためにいくつかの幕間劇を作曲します。そこから、徐々に人気が出てきて、1776年『セビリアの理髪師』を完成させ、イタリアで大変な人気を得ますが、1816年にジョアキーノ・ロッシーニが、 パイジエッロと同じ台本に曲付けして、『アルマヴィーヴァ』の題名で新作を発表すると、このオペラはロッシーニの最高作品と見做されるようになり、一方でパイジエッロの『セビリアの理髪師』は忘れられてしまいました。
 現在、『セビリアの理髪師』と言えば、ロッシーニのオペラを思わせますが、漫画の中でマリーアントワネットの演じた『セビリアの理髪師』は、年代的にみて、パイジェッロの『セビリアの理髪師』なのです。
 パイジェロといえば、もう一つ歴史的に忘れてはいけないのが、オペラブッファ(注1)への関わりです。18世紀、オペラは変革の時代であり、様々な変化をみせました。
その中で、オペラブッファという形式を作り出すのに大きく関わったのがこのパイジェロでした。

 『セビリアの理髪師』は、オペラブッファで書かれたオペラで、このオペラはパイジェロが1776年から8年間ロシアの宮廷楽長をしていた時に、ロシアの皇帝エカテリーナから、イタリア語のわからないロシア貴族のためになるべく簡単で短いオペラを書いて欲しいと依頼され、二幕構成のオペラを作曲しました。これが一つのきっかけになり、以後オペラブッファは二幕構成で書かれる事が多くなりました。

 1784年、ロシアから帰国し、ナポリの宮廷楽長に就任します。
 1802年にはナポレオンに招かれ、パリで礼拝堂楽長に就任します。パイジェッロはナポレオンにとても気に入られ、その際、テュイルリー宮殿の宮廷楽団も指揮していました。 その後、ナポレオンの弟、ジョゼフがナポリの国王となると、そこの宮廷音楽監督になり、ジョゼフがナポリに作った音楽学校の校長も務めます。しかし、ボナパルド家の失脚と共にすべての職を失いました。
 1815年に妻を亡くすと、自身も心身共に衰弱していき、1816年に没。

 代表作は、『セビリアの理髪師』 『奥様女中』『ニーナ』等。歌劇は90作以上作曲しています。

(注1)オペラブッファ=様式の名前。軽くてユーモアのある主題がとられる事が多く、主人公も貴族ではなく、第3身分のものが多い。

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■ロッシーニ
「ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino  Rossin)本名:ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ (Gioachino Antonio Rossini)1792―1868」

 19世紀のイタリアの作曲家。美食家。
 父は管楽器奏者、母はソプラノ歌手という音楽一家の一人息子として生まれ、音楽の英才教育を受けて育ちます。
 18歳の頃からオペラ作曲家としてデビューして、多くのオペラを書いていき、19年間に39曲もの歌劇を書きました。
 特に、最も有名な歌劇『セビリアの理髪師』はわずか13日で仕上げた事は有名です。
 『セビリアの理髪師』の初演(その時の題名は『アルマヴィーヴァ』1816年)では、歴史に残る大騒動となりました。当時の有名なオペラ作曲家パイジェッロ(上記の作曲家)も同じ題材をオペラ化していたため、初演の席には多数のパイジェッロ支持派が妨害のためにやってきて、彼らはイタリア中の“口笛屋”(歌の途中に口笛を吹いて妨害したり、劇をめちゃくちゃにするための集団)を集めて妨害し、初演は大失敗で終わりました。

 1824年、パリのイタリア座の音楽監督に就任。
 1825年、フランス国王シャルル10世の即位に際して、記念オペラ・カンタータを作曲。国王に献呈し、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得ます。
 1830年の7月革命に際しても新政府と交渉し、前国王政府から給付された年金とその後の年金の支払いを約束させます。
 ところが……その後もロッシーニは活躍し、人気のある作曲家として、活動していましたが、37歳の時の『ウィリアム・テル』発表後、突然オペラ界から引退してしまいます。
 その理由は未だによくわかっておらず、以下のような理由が考えられています。
 ★後世に名を残すために、わざと絶頂期に引退した。
 ★政治的な理由で引退した。
 ★ロッシーニは作曲家としてだけではなく、美食家としても知られていて、料理に専念するために引退した
 と様々な憶測がされますが、どれが本当かよくわかっていません。

 引退後のロッシーニの生活はというと、ボローニアで豚の飼育とトリュフの専門家として活躍し、パリでは美食家用レストランをひらき自身で腕をふるっていました。
そして様々な料理を、まるで作曲をするように考案していきます。「トゥルヌドロッシーニ(牛肉とフォアグラとトリュフの料理)」は有名な料理として現代にも伝えられている料理の一つで、これもロッシーニが考案した料理です。
 1868年に癌になっている事がわかり手術を受けますが、その後感染症にかかり、同年に没。

 代表作は『結婚手形』、『セビリアの理髪師』、『ウィリアム・テル』等。

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■ボーマルシェ
「カロン・ド・ボーマルシェ(Caron de  Beaumarchais)本名:ピエール=オーギュスタン・カロン(Pierre-Augustin Caron)1732―1799」

 18世紀のフランスの劇作家・事業家。
 パリで時計商の子に生まれ、宮廷に出入りし、貴族の未亡人と結婚して貴族の称号ド・ボーマルシェと財産を手にいれます。
 劇作に入ってからは、多芸・才気ぶりを発揮しますが、一方で、国王の密使になり、フェルゼンの行ったアメリカ独立戦争に際しては武器提供等に関わる等、かなり政治的活動もしました。

 また、ヴォルテール(啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者、作家 1694-1778)に対してとても尊敬の念を抱いていて、生涯をかけてヴォルテール全集の出版などに携わります。これは文学的にみてもとても重要な行いでした。
 1789年のフランス革命の際、バスティーユ前に豪邸を有していたボーマルシェは、ハンブルグに亡命します。(1796年にフランスに帰ってきます。バスティーユ広場の近くには彼の銅像がたっているそうです。)
 ボーマルシェは、数度の投獄、3度の結婚を経験するなど、とても波瀾万丈な生き方をしたようです。1799年に没。

 代表作はフィガロ三部作(『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』『罪ある母』)。貴族を出し抜く従僕の姿を描いた作品が多い。

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 このように、漫画には登場しませんが、アントワネットオスカルと同じ時期(ロッシーニをのぞく)に生きた、作曲家や劇作家には後生に名を残す才能あふれる芸術家が多くいました。

 もし……オスカルとボーマルシェが出会って話していたらどんな論争になるのかしら……とか、オスカルや、フランス衛兵隊は、革命時にはバスティーユ前にあるボーマルシェの家の前を通ったのかしら?とか、アントワネットが『セビリアの理髪師』のロジーナの役を演じる時に、演技や音楽指導をパイジェッロから受けていたら……とか、「i f」の事ばかりですが、想像すると楽しいですね。(Eriko)

<主要参考文献>

井上和男監修 『クラッシック音楽作品名辞典』三省堂 1996
音楽之友社編 『音楽中辞典』 音楽之友社 2006
高橋浩子 他 『西洋音楽の歴史』東京書籍 2000
中河原理 『オペラ鑑賞辞典』 東京堂出版 2004
西原稔 『音楽史本当の話』 音楽之友社 2007
門間直美 『西洋音楽史』春秋社 2000
D.J.グラウト 『新西洋音楽史 中』音楽之友社 2001
HMミラー 『新音楽史』東海大学出版社 1996

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投稿者 ベルばらKidsぷらざスタッフ  2010/05/27 11:00:00 ベルサイユの音楽会 | | トラックバック (0)

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