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2011年1月 7日 (金)

日仏歴史談議

王の愛人のその後

 

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 新年といえば、1771年1月1日ベルサイユ宮殿の新年会は、マリー・アントワネットにとって忘れられないものとなった。フランスに嫁いで約2年、初 めてルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人に声をかけたからである。その場にいた人々は、王太子妃が愛妾に屈服した、と受け取ったようだ。だが、ルイ15世が 亡くなると、一転デュ・バリー夫人はベルサイユ宮殿から追放され、断頭台の露と消える。
 ベルサイユ宮殿を追放されてから処刑されるまでのデュ・バリー夫人はどのような人生を送っていたのだろうか。

 1774年ルイ15世は天然痘を発病し、回復が見込めないとわかると、デュ・バリー夫人にリュエイユへ退去することを命じた。そして、ルイ15世が亡くなると、ルイ16世は仕事始めにデュ・バリー夫人に対し、今後いかなる理由があっても二度と宮廷に姿を見せてはならないと命じ、王国内で最も厳しいといわれるポン・トー・ダーム修道院への追放令を出した。そこでは面会も文通も禁止されたが、1年後には少し軽減され面会人に会えるようになり、1776年10月には完全に自由の身となり財産などを取り戻した。

 自由の身となったデュ・バリー夫人のもとには、マリー・アントワネットの兄であるヨーゼフ2世も訪れたり、オペラ座の舞踏会ではお忍びのマリー・アントワネットと会話も交わしている。また、恋愛もして旧知のブリサック公の愛人となった。パリのブリサック公の館に泊まり、ブリサック公爵夫人やその娘とも親しくつきあっている。
 1791年には盗まれた宝石を取り戻すためロンドンを往復していたが、1792年、愛人のブリサック公が虐殺されると、ロンドンに再び渡り、ブリサック公の娘とも同居しながらサロンを開き、ジョージ3世に拝謁しピット英首相とも会ったりしている。ルイ16世が処刑されると、デュ・バリー夫人は喪服を着てロンドンのスペイン大使館の追悼ミサに参列している。
 だが、何を思ったのか、1793年3月5日、周りの制止も聞かずフランスに戻った。意外にも半年ほどは平和に過ごせたようで、シャボ伯と最後の恋をしたという。だが、1793年12月8日午後4時半、フランス共和国に対する陰謀を企てたなどの罪状で、革命広場で処刑され、当時のマドレーヌ墓地に埋められた。

 一方、江戸幕府徳川将軍の側室たちは、仕えた将軍の死後はどうしたのだろうか。側室たちは、その素性や年齢にかかわらず出家し、二の丸、三の丸あるいは桜田御用屋敷(日比谷公園)に移った。桜田御用屋敷は、比丘尼屋敷と呼ばれ、まるで御用済みの側室の捨て場のようであったという。出家後の生活は保障されたが、外出も自由に出来ず、桜田御用屋敷の中で静かに亡き将軍の菩提を弔う余生を送った。出家した側室たちは、病気になっても実家に帰れず、桜田御用屋敷内で療養し、死亡した時も桜田御用屋敷で葬式が出された。
 デュ・バリー夫人のように、自由に外出し恋愛をするなどありえなかった。もし、恋愛をしたらどうなっただろうか。

 12代将軍家慶の側室お琴の方は、家慶没後出家し、桜田御用屋敷で暮らしていたが、屋敷の修理のために出入りしていた大工に夢中になった。お琴の方は、紀州新宮の城主であり、紀伊藩付家老の娘であるが、兄・水野忠央の野心のため、大名よりも身分の低い旗本の養女となって将軍の側室になった。美貌の持ち主で、聡明だったため寵愛を受け子供も生んたが(皆夭折)、家慶が亡くなると、30代にもかかわらず出家し桜田御用屋敷に移った。そこで、大工に夢中になり、亡き家慶の墓参などと称し密会を重ねていたが、とうとう噂になり始めた。1855(安政2)年、兄が病気だという知らせが入り、実家へかけつけると、そのまま桜田御用屋敷に戻らなかったという。不義を働いたということで、兄によって、成敗されたという。

 フランスと日本の権力者の愛人のその後の違いは、どうして起こるのだろうか。
 フランスの公式愛妾は、子供を産むことではなく、外国の大使を引見したり、もてなしたり、またベルサイユ宮殿での公式行事舞踏会などの中心として采配することが役割とされた。それに対し、側室は、将軍の跡継ぎを産むことが役割とされた。そのため、たとえ将軍死後でも、将軍以外の子供を産むことは許されなかった。

ちょこっと最後に…
ルイ15世没後のデュ・バリー夫人の愛人ブリサック公爵は、1773年6月8日に王太子夫妻が結婚後初めて正式にパリ訪問をした時、市民から熱烈に歓迎されたマリー・アントワネットに対して、「妃殿下に恋している20万の人々をごらんになっているのでございます。」とささやいた人物です。そして、革命によって、国王夫妻がパリのチィルリー宮へ移された時、国王に従って夫婦でチィルリー宮へ移り、1791年には新たに組織された近衛部隊隊長に任命されましたが、翌年9月に虐殺されました。(鈴木規子

    ◇

〈参考文献〉
『デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット』 飯塚信雄 文化出版局
『フランス女性の歴史』 アラン・ドゥコー著 柳谷巖訳 大修館書店
『フランスの歴史をつくった女たち』 ギー・ブルトン著 田代葆訳 中央公論社
『フランス革命の女たち』 池田理代子 新潮社
『ルイ十六世』 ジャン=クリスチャン・プティフィス 玉田敦子他訳 中央公論社
『大奥の秘事』 高栁金芳 光文社
『大奥学』 山本博文 新潮文庫
『大奥の奥』 鈴木由紀子 新潮新書
『江戸の女の底力』 氏家幹人 世界文化社
『歴史人』2010年11月号 KKベストセラーズ

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投稿者 ベルばらKidsぷらざスタッフ  2011/01/07 10:00:00 日仏歴史談議 | | トラックバック (0)

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