由美子へ・取材ノート
第3章 体操する少女
「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第3章では、体操に夢中になった由美子の小中学生時代を描く。父親の転勤で大阪から東京へ引越した由美子は、近くの池上スポーツクラブに通い始める。昭和40年代半ばのこの時期は東京五輪の記憶も新しく、体操への国民的熱気は盛り上がっていた。熱心で真面目な由美子はどんどん上達し、全国大会へも出場するようになった。しかし…。
☆ ☆ ☆
バレエから体操へ
由美子が小学校3年の1学期を終了した頃、一家は大田区大森の社宅へと引っ越しをする。
「新幹線で大阪までレッスンに通いたい」と、大好きだったバレエ教室への未練を口にする娘のために、母は近所のバレエ団やレッスン場をいくつか調べてまわった。だが、クラシックバレエの教室は見つかっても、江口舞踏教室に近い系列のものは1つしかなく、それも東横線の都立大学まで行かなければならなかった。
「通わせるには少し遠すぎるし、と悩んでいたんです。そんなとき、ご近所に池上スポーツクラブにお子さんを通わせている人がいて。場所もそんなに遠くないし、床運動などはバレエの先生が教えていらっしゃるというので、それならいいかしらと」
池上スポーツ普及クラブは、当時も今も、大田区池上の本門寺境内にある。主宰は東京五輪で活躍した小野喬氏と清子夫妻で、スポーツの普及を目的に1965年に設立されて以来、全国に支部を増やし、ソウル五輪の小西裕之選手や、モスクワ五輪の北川淳一選手をはじめとする沢山の選手を生みだしている。
由美子は、1970年の夏に、少年女子の部のCコースに入った。
「初めの頃は時々私に、“おかあさん、やっぱりバレエのほうがいいよ”と言ったりしていたんですが、だんだん上達していくにつれて、面白くなっていったみたいです」
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
昭和40年代半ばのこの時期は、まだ東京五輪の記憶も新しく、体操への国民的熱気は盛り上がっていた。だが、その熱気を受け止めるには、日本の体操界は態勢が整っていなかった。そんななかで池上スポーツ普及クラブは、東京五輪で活躍した小野夫妻の直接指導が受けられることもあって、とくに人気が高く、選手を目指す者から趣味レベルの者までさまざまな生徒が通っていた。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
主宰の小野清子にとっても、吉田由美子は記憶に鮮明な教え子だった。
「大船から通って来てましたから、遠くから来ているんだなということで感心したのと、とにかく熱心で真面目、そして私達の言葉でいう自己教育のある子、自分を鍛えていく力のある子でした。池上スポーツクラブは、東京オリンピックを機会に、日本人の体力を向上させようという運動が盛り上がる機運の中で作ったもの。競技クラブではなく普及クラブということで、楽しみながらきれいな体格を作ることを教育方針にしていました。その中で、選手になりたいという意志や希望を持っていて最低限の基本ができて、私たちから見ても可能性を感じさせる子がいると、競技部で練習させました。吉田由美子さんもそのひとりで、秋田の個人総合で優勝したり、海外のオリンピック候補クラスの選手たちと競い合える国際ジュニア大会に出たり、楽しみな選手のひとりでした」
小野清子の言葉にも出てきた「秋田の大会」とは、1973年に行われた全国スポーツクラブジュニア体操競技交歓会のことで、由美子は、個人総合で優勝の栄誉に輝いている。この大会は父俊三と兄の雅彦も応援にかけつけた。
☆ ☆ (後略) ☆ ☆
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《関連情報》
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《バックナンバー》
☆もうひとつの『由美子へ』―若くして逝ったある宝塚女優の記録
☆第1章 見果てぬ夢
☆第2章 誕生と家族
投稿者 ベルばらKidsぷらざスタッフ 2007/04/10 9:30:00 由美子へ・取材ノート | Permalink | トラックバック (0)