由美子へ・取材ノート
第16章 遭難
「宝塚随一の美女」と称された元タカラジェンヌ北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづるノンフィクション『由美子へ・取材ノート』。
第16章では、1985年8月12日、事故の一報があった後、家族、関係者の姿を書く。
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事故と人々
実家では母が、最初に由美子の遭難の報せを聞いた。
事故のニュースがテレビに出はじめた午後8時前後に、伊丹空港に迎えに出ていたという知人から電話が入った。
「事故機に乗っていたはずです」と告げられた。
「朝、家を出るときは、そんなことは言ってなかったので、最初は信じられなかったんです。でも其田さんに確認したら、大阪に行くかもしれないと聞いていたと。
由美子の部屋に電話しても出ないし、本当かもしれないと思い、私の妹と弟の家に電話したりしているうちに、乗客名簿に名前が出たらしくファンのかたや友人から電話が次々にかかってきました。とるものもとりあえず、私たちは車で羽田に向かうことにしました。1時間ほどで羽田に着くと、弟の宏志や妹の夫の樋口さんが待っていてくれました」
羽田には遭難者の身内の者用に、現地までのバスが日航側によって用意されていた。4人はそれに乗せられて事故現場に向かった。
☆ ☆ (中略) ☆ ☆
焦燥
事故現場については情報が混乱していた。最初に長野県側と誤報されたため、両親たちはいったん長野県小海町までバスで運ばれてしまう。そこから再び群馬県側に向けてバスで移動、対策本部のある藤岡市には、昼頃にたどり着いた。藤岡の市民体育館が本部になっていて、家族たちは、いくつかの小・中学校の体育館に分かれて待機することになった。
雅彦の乗ったバスは、走っている最中に群馬らしいと情報が入り、そのまま藤岡へ直行した。
「バスの中で、朝方、短波で生存者がいるというのを聞いて、妹の生存を僕は信じていました。到着は昼過ぎで、関係者用の藤岡の体育館に行き、両親とはそこで顔を合わせました。由美子の同期で実家が長野の小島希恵(芸名・南郷希恵)さんと埼玉の青木玲子(芸名・文月玲)さんのご両親が、駆けつけてきてくれて母を励ましてくれて、ありがたかったです。
朝からいろんなメディアが事故の情報を伝えはじめていて、テレビではNHKが、宝塚の北原遥子と顔写真を入れて報道していました。でも体育館にいても、現実じゃないみたいなんですよ。事故機に確かに乗ってたという証拠はない。大阪で待ってた人の話だけでしたから。遺体確認するまでリアリティがないし、信じない。死んだという事実を感じないままでいました。
☆ ☆ (後略) ☆ ☆
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《関連情報》
☆『由美子へ・取材ノート』について
☆2007年春の御巣鷹行
《バックナンバー》
☆もうひとつの『由美子へ』―若くして逝ったある宝塚女優の記録
☆第1章 見果てぬ夢
☆第2章 誕生と家族
☆第3章 体操する少女
☆第4章 宝塚との出あい
☆第5章 宝塚音楽学校
☆第6章 娘役北原遥子
☆第7章-1 舞台1981~1982
☆第7章-2 舞台裏
☆第8章―1 舞台1983~1984
☆第8章―2 杜けあきインタビュー 屋上の思い出
☆第9章 メディアへの露出
☆第10章 劇団を去る日
☆第11章 女優への助走
☆第12章 女優修行
☆第13章 夢への一歩
☆第14章 別れの夏
☆第15章 日航123便
投稿者 ベルばらKidsぷらざスタッフ 2007/07/24 7:00:00 由美子へ・取材ノート | Permalink | トラックバック (0)