榊原和子の宝塚初日&イベントレビュー
役者・轟悠の真骨頂を見た 星組日生劇場公演『Kean 』
轟悠の演じるエドモンド・キーンは、19世紀に実在した天才的なシェイクスピア役者。彼を題材に、アレクサンドル・デュマやJ・ポール・サルトルが戯曲を書いているくらいだから、一時代を風靡し、人々を熱狂させていた天才役者であることは間違いないだろう。
だがデュマもサルトルも『狂気と天才』というタイトルを使ったように、天才的な彼の才能の裏にある狂気、破綻した精神を描かないとキーンの物語が成立しない。今回、どこまでその破滅ぶりに宝塚の舞台で迫れるかが注目の的だった。
物語は、ロンドンのドルーリー・レーン劇場の舞台から始まる。『ハムレット』を演じるキーンに熱狂する大衆。稀代のシェイクスピア役者として貴族階級にももてはやされ、プリンス・オブ・ウェールズとの身分を越えた友情で結ばれるほどの人気役者キーン。だが彼は最近、プリンスとの間に、微妙な溝が生まれているのを感じていた。デンマーク大使夫人エレナを2人が愛してしまったせいなのだ。
さらに事態を混乱させるかのように、キーンを愛する金持ち娘のアンナが登場。エレナをめぐるキーンとプリンスの確執、アンナをめぐるキーンとアンナの婚約者ネヴィル卿の対立、またキーンをめぐる2人の女の恋の鞘当てという、それぞれの思惑と策略が、シェイクスピア劇の上演を織り交ぜながら心理劇風に展開されていく。
キーンを演じたがる役者は多い。それはキーンが役者であることの善も悪も全てを表している役だからだろう。キーンは才能もあるし努力家だが、同時に傲慢で移り気で自堕落でもある。誇り高く自信家で、それゆえに傷つきやすくいつも不安に怯えている。崇められ憧れられるが、その裏で軽んじられ侮られてもいる。観客を演技という力で支配するが、観客からは人気という力に支配されている。
この作品世界は、演じることの歓びと虚しさ、また役者というものの崇高さと卑小さを根源的なテーマとして突き付けてくるので、たとえ宝塚の舞台といえども、そこから逃げるわけにはいかない。そんな難しい戯曲とテーマを、轟悠と星組メンバーはよく消化し、しかも宝塚らしさを失わずに成立させたという点では、この公演は成功だったと言えるだろう。
轟悠のキーンはなによりも人気役者らしい華があり、全編ほとんど出ずっぱりの状態のなかで、キーンの喜怒哀楽を、激しく繊細に描き出している。シェイクスピアのセリフも含め膨大な言葉に、声を少し疲れさせているようにも聞こえたが、劇中劇の「ハムレット」なども含め、若手揃いの座組のなかで見事な求心力を発揮した。意外に思ったのは、誇り高い役者の部分のみならず、コンプレックスや自堕落な部分もその内部にあったのだと思わせるところで、役者轟悠の真骨頂を見た気がする。
プリンス・オブ・ウェールズの 柚希礼音も、出番が多くないわりには、その印象が鮮やかだ。長身で押し出しのよいスタイルで、一国の皇太子という格を自然ににじませ、踊らないでもスターとしての資質の豊かさを改めて認識させる。キーンへの優越感と妬みや最後に見せる尊大さなど、物語のなかで天才役者と拮抗するだけの内面の充実を保っていたことに拍手を送りたい。
エレナ・デ・コーバーグ公爵夫人の南海まりは、美しくて歌声にも聞き惚れるのだが、あえて言うならキーンとプリンスの両方を手玉にとる女の魔性がやや不足気味か。ある意味では両方を狂わせていることを知って楽しむくらいの毒を、どこかで持っていることが大事だろう。
アンナ・ダンビーの蒼乃夕妃は、金持ち娘の自由気ままさはよく表現できているし、「オセロー」のデズデモーナでのコメディタッチな面も自然に笑いを誘う才能がある。スタイルもいいので、あとはメイクの工夫などで、より華やかさを身につけることだろう。
この物語はキーンの周辺の人々と、貴族社会の人々という形でグループが分けられるが、まずはキーンの身辺のなかでいちばん目立っていたのが、キーンの付き人ソロモンの紫蘭ますみ。キーンの世話を焼き、諭し、叱り、台本の読み合わせをし、ファンや女たちを交通整理する。こうるさいようでもあり、キーンを心の底から敬愛しているようでもある。そんな付き人を、紫蘭はリアルな動きとセリフで演じきった。
一座の若手俳優たちを演じているのは、星組の若手二枚目たち。劇中劇「ハムレット」では、バーナビーの彩海早矢はレアティーズを、フランシスの真風涼帆はホレーショを演じて目立っている。
ベン・鶴美舞夕、ケビン・碧海りま、アレック・真月咲らも、楽屋裏や酒場でキーンを取り巻き、金をせびり、ときには親身になって心配し、という具合にキーンの生活の裏側や当時の役者世界の様子を伝えてくれる。
キーンを愛する大衆の代表のような、酒場のミセス・スパローを演じている百花沙里は、気っぷのよさと踏まれても立ち上がるエネルギーで、観客の胸を打つ。アクロバット一座のクリスティ・如月蓮やピップの壱城あずさ、ティム・海隼人、サラ・稀鳥まりやなどをはじめとするキーンを支持する若者たちも、みずみずしい力で役目をしっかり果たしている。
一方、プリンスを囲む側では、エレナの夫であるコーバーグ公爵・にしき愛は、政治家で貴族の尊大さと貫禄を、アンナの婚約者のネヴィル卿・一輝慎は嫉妬深さを、デルモア卿の水輝涼はある種の無神経さなどを、それぞれ表現している。侯爵夫人の華美ゆうか、キャロラインの音花ゆり、アナスタシアの華苑みゆう、といったメンバーが皇太子の周辺を彩り、ウワサ話に花を咲かせてみせる。
その2つの社会を行き来しながら、キーンが感じる階級社会への根深いうらみつらみ、また役者という浮き草のような存在の悲哀が、この作品の底には流れていて、その切なさは決して現代でも消え去ってはいないことが観ている側には伝わってくる。金、権力、地位、人を差別化し階級付けしようとするファクターは、いつの時代にもあり、それと闘うには、己の才能や力を余すことなく生きるしかないのだ。
キーンは、その矛盾と苦難に満ちた世界を、徒手空拳で、役者という才能だけをかけて闘っている。プリンスと女を争うのも、自分の役者としての力がどこまで本物なのか、確かめたいだけなのだから。
物語のラストでキーンは、プリンスに芝居中で侮辱を浴びせた罪により抹殺されそうになる。だが皇太子の“寛大な”心により、舞台での謝罪を条件に赦される。いわば屈辱と向き合うそのときに、キーンは己の真の姿にも向き合う。それは「役によってしか生きられない」役者というものの正体であり、つまりは「空」であることの虚しさである。だが、同時に「空」であることの自由も彼は知るのだ。
宝塚の舞台には、やや難易度が高いと思われた『Kean』だが、名作の持つ力はやはり大きい。出演者のなかに深く浸み渡り、演劇という「空」の世界を通して、そこに確かに、人が生きる世界の現実を見せてくれた。(文・榊原和子/写真・岩村美佳)
ミュージカル 『Kean(キーン)』
Lyrics and Music by Robert Wright and George Forrest
Book by Peter Stone
Based in the comedy by Jean-Paul Sartre,
adapted from the play by Alexandre Dumas
作詞・作曲/ロバート・ライト
同/ジョージ・フォレスト
脚本/ピーター・ストーン
潤色・演出/谷正純
翻訳/青鹿宏二
期間:2007年9月1日(土)~9月23日(日)
場所:日生劇場(⇒劇場のHPへ)
※詳しくは⇒宝塚歌劇公演案内へ
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投稿者 宝塚プレシャススタッフ 2007/09/18 17:52:44 榊原和子の宝塚初日&イベントレビュー | Permalink | トラックバック (0)